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女優私生活,私が優神になった理由|みれい🌸🌼|note

互联网 2021-04-14 12:20:14

私は田舎町の農家の長女として産まれました。祖父・祖母・父・母・4歳下の妹がいる環境で何不自由なくのびのびと育ち、元気いっぱい・正義感が強い女の子でした。自宅の目の前には小川が流れ、メダカが泳ぎ、夏は川で泳ぎ、年末には家族で餅つきをしたりして、幸せな時を過ごしていました。

私が小学校4年生くらいから、寝室で寝ていると夜中に廊下で父と母がケンカしている声が聞こえてきて、その度に布団を耳まで被り、泣きながら怯える日が増えていきました。母は泣き叫び、父は大声で罵倒し、祖父と祖母はそれを止めに入る。そんな光景でした。

それから私は普段無口だった父に普段から「怖い」という恐怖心が芽生え、父の顔色を伺うようになりました。

小学5年生の秋。決定的な出来事がおきました。田舎の地域の寄り合いに夫婦揃って参加していた両親はお酒を飲んで帰宅し、廊下でものすごい剣幕で怒鳴る父に母が「私が死ねばいいんでしょう」といって台所から包丁を持ち出し、祖父と祖母が泣きながら止めているのを見ました。地獄絵図です。震えがとまらず、泣くしかありませんでした。

次の日の朝、母が「車で送っていくからのりなさい」と私を車に乗せて出発しようとしたときに、ものすごい剣幕で父が走ってきて、助手席の窓の隙間から手をかけ、「お前どこにいくつもりや」と母に怒鳴りつけました。恐怖で私ははじめて両親の前で泣きました。

学校が終わって母が迎えにきてくれていて、「ごめんね。今からおばあちゃんちいくから」と言われ、そのまま私は生まれ育った家には二度と帰りませんでした。小学5年生の秋、母は私と妹をつれて、母の実家に帰り、父とは別居状態となりました。

母の父は左官で、厳格な人でした。なにかあれば表情を曇らせていましたが、私と妹には優しかった。

貧しかったけれど、お金がはいれば旅行に連れて行ってくれて、私たちが引っ越してきても嫌な顔せず、受け入れてくれました。祖父は祖母の再婚相手でしたが、無償の愛をもらいました。それに子供ながらに答えなけばと思ってました。学校も転校し、私を待っていたのは「いじめ」でした。

当時、田舎では新参者はいじめられるのが当たり前でした。上靴はなくなるし、聞こえるように嫌みを言われました。小学校5年生の冬、女の子は女から女性になる繊細な時期だから、みんなチームを作りたがる年頃でした。どこかに属しないといけない、そんな恐怖から、一番目立たないグループの子達と仲良くなりました。みんな心の綺麗な人達ばかり。でもそれがいじめを受ける原因になりました。来る日も来る日も上靴はゴミ箱の中でした。提出したノートは落書きされ、それでも学年1位の成績を取ったのは、母や祖父に安心して欲しかっから。そんな中、母と父の離婚は協議を繰り返したのち、成立しました。

中学生になり他の地域からの生徒も一緒になって、いじめがなくなり、バスケ部に入部しました。そして始まったのが上下関係のいじめ。2年生になり、毎日3年生のバスケ部女子に呼び出され、2年生はみんな正座させられ、帰りに1時間説教を受けました。来る日も来る日も。何人もやめていきました。「私がキャプテンになったら、こんなことしない」と思い、朝5時に体育館で毎日練習し、3年生が引退したと同時にキャプテンに任命されて、上下関係をなくしました。勉強・バスケに全てをささげ、高校生になりました。

はじめての彼氏ができて、県内唯一の進学校に進学し、公私共に順調な高校生活の始まりでした。高校2年の春、大学に行く費用を母に話したら、金銭的な余裕がないから高校卒業したら就職してほしいと言われ、それから学校で勉強するよりも働くことに喜びを感じ、自立しようと高校中退しました。

祖母は高校辞める事を反対しましたが、私は母親に金銭的な事で苦労してほしくなくて、働く決意をしました。16歳の冬、母の紹介で大きな縫製工場に入社しました。ところがそこは、いじめの巣窟でした。

女ばかりか、男性まで、当時中国人の女性一人に対して50人くらいが難しい日本語がわからない事をいいことに、醜い言葉で罵っていました。それを見て「何て悲しい環境なんだろう」と思い、すぐ辞めて、それからコンビニで、必死でアルバイトをし自動車学校代、車代を貯めて、免許を取りました。

そんな時、母が隣に住んでいた現在の義父と再婚し、義父・母・妹・兄(義父の連れ子)と5人の生活がはじまりました。義父はものすごく声の大きい人で、私は過去の経験から怖くてたまらなかった。たまに酔っぱらって母親と喧嘩する声が、私の幼少期の記憶を何度も蘇らせ、20歳の時に就職したのをきっかけに、家をでました。

母は泣いていました。でも、私は義父とは一緒には暮らせませんでした。

そんな中、成人式を迎えました。20歳の同窓会が行われている隣会場にたまたまいた男の人と仲良くなり、その後付き合うようになり、お金がなかった私は彼の実家に居候させてもらうことにしました。

職場は薬局で、中卒なのに雇ってくれた社長に感謝していました。当時は中卒で正社員で雇ってくれるところがなく、20回目の面接で受かりました。仕事も私生活も充実していました。

そんな23歳のある日、一本の電話が会社にかかってきました。父のお姉さんからでした。「お父さんがしんだの」って。え?うそ?え?頭が混乱して、妹に連絡して、生まれ育った実家にはじめて帰りました。

そこには、父の遺体が安置されていました。首には包帯がぐるぐる巻きにしてあり、私はすぐに死因が自殺だとわかりました。ふるえがとまらず、親戚のお姉さんに手を引かれ、亡き父の傍にいって父の顔を見た瞬間、泣き崩れてしまいました。

父は自宅の倉庫で、チェーンソーで自分の首を切って自殺しました。頚動脈・体にも何箇所も傷がありました。それを聞いてどれだけの苦しみとどれだけの孤独とどれだけの絶望を背負って、私たちがでていったあと過ごしていたかと思うと、涙がとまりませんでした。鬱になっていることは知っていたけれど、本当に父が死ぬなん思ってもいませんでした。

享年48歳でした。

初七日が終わった辺りから、私の調子がおかしくなっていきました。いつもと同じ時間なのに、イライラしたり、お酒の量が増したり、病院に行くと、自律神経失調症といわれ、軽い安定剤をもらいました。

父のことがあたまから離れませんでした。苦しみを、孤独を、もし私が理解して、連絡を取っていれば・・・何千回もおもいました。私は父にそっくりだから、体の半分無くなった。そんな感覚になりました。それから3ヵ月後に父のあとを追うように、父方の祖母がなくなり、その3ヶ月後に祖父が原因不明の病気でなくなりました。

悲しみの連鎖で塞ぎこんでいる私をみかねた彼が、1年後結婚しようと言ってくれました。

それからまもなくして妊娠に気付き、仕事を辞め、3人で住むために新しいアパートに引越し、やっと夢にまでみた幸せな生活がはじまる。必ず幸せになる。父の分までかならず。決意を固めました。そんな中、元気な男のこが生まれました。私は父の生まれ変わりではないかと思いました。この子を大事にしようと心に決めました。

そんな中、地元の先輩の紹介で夫が仕事を変えました。農機具販売から、大型トラックの運転手になりました。それが今思えば、私と彼との人生を大きく変える環境の変化でした。

夫は浮気もしない、ギャンブルもしない、優しい人でした。子育ても率先してやってくれたし、私の鬱がひどい時は子供をみてくれました。しかし、環境を変えてから彼は、人付き合いや飲み会で週に5日は家の空けるようになりました。全てトラック関係の先輩に呼ばれてでていき、その度に1万円持ち出し、家計は赤字。お金のことでケンカするようになっていきました。

どんなにお金がないと言っても聞いてくれず、私の貯金も底を付きはじめていたので、前の職場でパートとして復帰させてもらいました。朝は4時に起き、夫の弁当をつくり、1歳にならない息子を託児所に預け、仕事をし、もう毎日くたくたで、イライラする回数が多くなっていきました。子供の検診で病院にいくと、育児ノイローゼだと言われ、よけい安定剤に頼るようになりました。私がしっかりしなければと。

そんな中、ある日夫が夜中に酔って帰宅し、顔色をかえて私を怒鳴りつけ、私はリビングに叩きつけられました。

翌朝夫に、「もう離婚するから。暴力は無理」と言って仕事に行き、仕事が終わって託児所に子供を迎えにいくと、保育士さんが、「ご主人がお迎えこられましたよ」と言われ、すぐ夫に電話したら、自分の実家に子供連れて帰った。もうお前とは離婚する。と言われました。その足で夫の実家に向かう途中で、夫の先輩から電話があり、「なんか変な事したら、お前どうなるかわかってるよな。妹の店もつぶすぞ」と言われ、全部納得しました。最初からそのつもりだったんだと。

当時、まだ権力や圧力が当たり前の時代で、妹は2人の子供をシングルマザーで育てながら地元スナックのママをしていました。誰かの一言でスナックなんてすぐ潰れて、地元にいられなくなる時代。私は打つ手がありませんでした。母も当時お酒の飲み過ぎで、痴呆になりかけていたので、相談できる人は誰もおらず、子供はとられ、残ったのは、あの子のアルバムと自分の持ち物だけでした。

その時の絶望は今でも身震いがします。どうしようもありませんでした。

それから私は仕事以外、外に出るのも嫌になりました。誰かに会えば息子の事を聞かれるし、思い出すと涙が出るし、友達にも本当の事言えないし、妹が笑っている顔をみると本当の理由はいえず、もう本当にあの子が元気でいることを願うだけでした。あの子の写真だけが私の命でした。

パートで働いていたため、当時の給料は13万。家賃、車のローンすべてひいて、月に1万円しか食費がのこらず、3ヶ月で10㎏痩せ、見る影もなくなっていました。ある日もう精神的に何も考えられなくなって、自殺しようとしたとき、携帯がなりました。番号非通知でした。それで、ハッとしました。誰からかはわかりませんが、亡くなった父からのメッセージだと思いました。

数日後、元夫から電話があり、息子と合わせてやるからでてこいと言われ、当時4才になったばかりの息子はまん丸な顔をして、ママーと泣きながら抱きついてきました。半年会えない時間が長くて、苦しくて。

私は心に決めました。この子の為に夫とやり直そうと。

しかし、その選択がDVの入り口でした。夫はやせ細った私に驚き、同情したんでしょう。まずは一緒に暮らすことを了承してくれました。

私はあの子の為だったら、なんでも我慢できる、偽りでも夫を愛する努力をしました。

でも、もう優しくて包み込むような彼の姿はどこにもなく、周りの影響で、言葉も荒く、夜は相変わらず午前様、酔って帰ってきては私に「くそ女」「お前は死んだほうがまし」「俺と一緒住んでると他人に言うな。父子手当もらえなくなるから」こんなことばかり。毎日、毎日、毎晩言われつづけ、友人や会社にまで嘘を突き続ける日々が5年続きました。

私も最初は言い返していましたが、最期はおにぎり1つもはいらないような体になってしまい、心のよりどころはあの子の笑顔だけでした。

夏祭りの夜、夫がいつものように酔って帰ってきて、眠ってる私を布団の上から袋だたきにしてきました。私は走って2階に行き、扉を閉め、警察に電話し、助けをもとめました。しかし数分後きたのは、彼の先輩でした。先に夫が先輩を呼んでいたのです。

それから、私は2人の前で正座させられ、もう何も反撃する気力も体力もありませんでした。その日から、想像を絶する暴力がはじまりました。

酔うと必ずあばれ、何度も夫の両親を呼び、助けてもらいました。ある日は鍋の沸騰している残り汁を私の膝にかけられ、大火傷しました。

そんな中、職場でも壮絶ないじめにあっていました。仕事だけは休みたくなかったから、コンシーラーで傷を隠し、笑顔でお客様に接客していました。

売り上げは社員を抜いて常に1位でした。そんな中、嫉妬という、陰険ないじめがはじまりました。私だけ呼ばれない飲み会。私がいるの分かっていて、気持ち悪い・空気よめ・死ねなんて当たり前でした。もう感覚が麻痺ってしまっていました。私はもう生きる気力さえ、なくしてしまいました。

仕事に行く前に泣いて、昼休みに泣いて、夜はあの子の寝顔を見るだけで涙が出ました。

そんなある日、仕事中に目の前が真っ暗になり、私はとうとう倒れてしまいました。意識錯乱していたそうです。心も体も壊れてしまっていました。

目が覚めたら病院のベッドの上でした。記憶にはありませんが、今までの経緯・暴力・いじめを他人に初めて話していました。DRから、「DVは絶対に許してはいけないし、やってはいけない」と言われ、涙が止まりませんでした。

それから少しづつ、私の中で何かが変わりはじめました。以前から母方の祖母にはよく真夜中に泣きながら相談していました。倒れた日に電話すると、「もういいから帰っておいで。お前はまだ人生やり直せる。大丈夫。お前の思いはかならず大きくなってあの子はわかる」と。

それから息子と2人で家を出ようと決めました。息子が小学校4年生の運動会当日、終わってすぐ逃げるように息子を連れて、祖父の家に行きました。「ママなんでおばーちゃんちいくの」と言う問いに答えられませんでした。

その夜中、妹から電話があり、元夫が自殺未遂したと連絡がありました。息子に会いたいと。

息子を連れて彼がいる病院に行きました。寝ている息子を抱え、病室に入った私に、

「子供は置いていってくれ。お願いだ。俺はお前と本当は仲良くやっていきたかった。息子がいないと、俺は死んだほうがましだ。」と、手首に包帯を巻いた姿で言いました。

私は父の事を思い出しました。父は孤独の中で死を選んだ。私は父を殺したと思って生きてきました。私たちがあのまま、あそこにいれば、父はチェーンソーなんかで首を自分で切らなくてよかったのではないかと。だから、大切な息子には罪や悲しみを背負って欲しくなかった。

私は1人で家をでました。もう、だれも殺せなかった。

1人で県外に家を借り、仕事は1時間かけて通勤し、ひどい鬱になり、過食嘔吐になり、かなり厳しい生活の中、息子には毎月お小遣いをおくりつづけました。

毎日、毎日、あの子が笑顔で過ごしていることを神に祈り続けました。神社やお地蔵様には必ず手をあわせ息子の幸せをお願いしました。

家を出て一年後、やっとの思いで子供に会えた時、息子は大泣きして、わたしにしがみつきました。本当に寂しい思いをさせてしまったとを心から後悔して、何度も息子にあやまりました。

「ママは悪くないよママが泣いたら僕も悲しいからお願いだから泣かないで」と息子に言われ、それから強くならなければ。と決意しました。生きていくんだと。

それから数年年の月日が経ち、生活も落ち着き、鬱の治り、会社でのいじめも無くなりました。今は息子も自分で会いにきてくれるようになりました。

2020年6月にたまたま興味本位ではじめたTwitterでした。現実では正直誰も信用できなかったのに、今はこんなにも信頼できる人がいます。仲間もいます。親友もいます。こんな幸せが私にくると思っていなかったから、本当に奇跡です。

私の人生はもしかしたら不正解かもしれません。しかし人生に正解もないのです。

ひとつだけ言えることは、私があのとき、もっと誰かに相談していれば、大切な人に涙を流させない選択が出来ていたかもしれません。

私が伝えたい事は1人で悩まないことあなたは1人じゃないこと。誰かに甘えなきゃいけないこと。人は本当は果てしなく弱いこと。

みなさん、どんな失敗をしても辛いことがあっても何歳になっても人生はこれからです。辛い思いをしても、また笑顔になれる日がきます。どうかみなさん幸せを諦めないでください。お願いいたします。

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